リレーコラム
ASD者の「居場所のなさ」とは何だろう?
現代はASD障害の人々にとって決して生きやすい時代ではない。共同体の変容とともに確かなものがなくなり、流動化する社会の守るべき規範は複雑化しわかりにくくなった。そのため曖昧な場の空気をよんで行動することが要請されるようになった。原則やルールを遵守することが安定をもたらすASD者にとってこういった時代は適応が難しいであろう。また、ASD者の解離にも触れ要因の1つとして「居場所のなさ」があるとも書かれている。定型発達者の解離においては、虐待や暴力に由来する「居場所のなさ」や家庭が「緊張に満ちた場」であることからくる「居場所のなさ」が問題となっているが、「解離型」ASD者もそのほとんどが「幼少時から居場所はなかった」と明言している。しかし、ASD者にとって辛いのはこういった定型発達者の「居場所のなさ」ではなく、そもそも自分はこの世界に落ち着くところがない、馴染むところがないという感覚である。定型発達者とASD者では、同じ「居場所のなさ」でも内実が異なっている。通常、社会性あるいは社交とはそもそも自己と他者との成立を前提としている概念である。しかし、ASD者は「自己も他者もいない」「自己のみあるいは他者のみ」の世界に長くとどまり、「自己と他者」という相互主体的世界を体験するまでなかなか発達しない。ASD者はそもそも我々が住んでいる社会に馴染めず「居場所を見い出すことができないでいる」・・・というような一説が書かれていました。皆さんはどう思われますか?私自身ASD者にとっての本来的な馴染んだ世界とはどのようなものか。また、「居場所とは何か」を今一度あらためて考えてみたいと思っております。