リレーコラム
異文化交流
今年度は、道の障がい者保健福祉課と道教委特別支援教育課とが連携し、発達障害者支援センターも加わって、全振興局エリアで事業を行った。
各市町村の連携体制整備の推進に向け、まずは道から動き始めた。振興局も含め、縦割りだと非難されがちな行政自ら第一歩を踏み出したことは非常に素晴らしいと思っている。もちろん、今後も課題はあろうが、まずはそこを評価したいし、発達障害者支援センターとしても、その道としての取り組みのチームの一員として活動できたことはとても嬉しい。
そんな中、今後、さらに教育と福祉(医療や労働など他にも繋がるべき先はあるが、まずはできるところから)が、機能的な連携体制を構築できていくためにという、あくまでも前向きな思いで、ふと気づいたことについて書きたい。
教育の関係者から時折聞かれる言葉に、「教育は教える、伸ばす、一方、福祉は配慮」というようなニュアンスの話がある。
うまく言えないのだが、立場や役割には確かに違いはあると思うけど、教育の人には、そこが違うんだという認識があるんだということが少し引っかかった。
福祉のサイドの人や機関でも、指導するという観点はあるし、発達を促す、伸ばすという目的も取り組みもある。
また、教育関係者の言う「配慮」の意図するところに、たとえば構造化もあるのかも知れないが、確かに、不得手を補うという側面はあるが、スケジュールはそれを使うことで、世の中、変化・変更があるんだなぁということの学びに繋がり、柔軟性を育むことになる。
さらに言えば、教育の世界にも合理的配慮という言葉が今、浸透してきているし、でも配慮って、やらなくていい、ではなく、どう配慮すればできるか、が大事で、そしたら、構造化がある事で、自立度が高まり、活動の幅が広がり、経験も増え、学習態勢も整い、学びに繋がると考えることができ、
やっぱり、教育と福祉、そんなに違わないとも思う。
福祉のサイドにも教える、伸ばすという視点はあるし、構造化は配慮という側面だけじゃないしと思うのだが、教育サイドに、
それを使って、学んでいき、上手に生きていく、ということを教え育てるのだという認識が無いとすれば、そのために、どうしても、いずれ無くさなきゃという考えから脱することが出来ないのではないか、とも思ったりする。
どうしても書き方が、教育関係者に対する悪口っぽくなってしまうのだが、
本当に言いたいのは、どちらが正しいかでは無く、教育と福祉でそれぞれ、考え方やとらえ方等々に違いが有り、それは文化の違いと例えるとちょうど良いくらいの、微妙な感覚的な違いが有り、それを互いに共有しつなぐ作業をしないと、いつまで経っても、微妙にかみ合わないままで、ちょっとずれたままで一緒にやろうという状況になり、そうなると最終的に、あと一歩どうもなんか違う感じが払拭できず、真の連携が進まないのでは、と思ったということ。
広く考えれば、支援や指導の対象となる個々の人が、それぞれにハッピーに暮らせますように、を応援するということで、そこについては教育と福祉も差は無いのではと思うのだけど。
と言うわけで、29年度は、この微妙な違和感の正体を分析し、それをどう埋めていくかということに着手したいと思います。